日本の同性愛の歴史

東京都渋谷区のパートナーシップ条例を皮きりに、同性愛を生き物としておかしい、という痛烈な批判が徐々に弱まってきています。同性愛が異常なことという認識が広まったのは、キリスト教の見解が大きな影響を与えていました。

子孫繁栄、繁殖の観点から、子供を生むことができない同性愛は、キリスト教では認められなかったのです。このため、古来から欧米では同性愛は忌むべきものとして扱われ、19世紀には治療対象となっていました。いっぽう、日本ではキリスト教や欧米の文化が入ってきたのはごく最近です。欧米の考え方が加わる前の同性愛とはどのようなものだったのでしょうか。

戦国時代の武将は男性ホルモンが活発に分泌されていた?

下剋上が当たり前でいつ寝首をかかれるか、戦で負けるか分からない。混沌とした戦国時代では身分が高い武将と言えども、常に死と隣り合わせでした。

過酷な環境の中では、男性は自分の子孫を残すために男性ホルモンの分泌が盛んになります。男性ホルモンは、気性を荒くし、体の筋肉を作り、性欲を上昇させるといった作用があります。

実際、戦国時代の後半に生まれて、将軍のような高い地位で恐らく前線に立つことはほとんどなかったと推測される徳川秀忠さえ、大柄で筋肉質な男性だったのです。絶え間ない駆け引きや戦でのし上がる男性たちは、腕力が強い=偉いという独特な理論ができあがり、腕力が弱い女性を見下すようになります。

さらに中国から渡ってきた儒教の考えで、血液は汚れという考え方がありました。月経や出産で血液を流す女性は陰陽道でも、存在が陰とされ、男性の聖域の戦場に入れることも嫌がりました。しかし、女性がいなくても男性としての欲求は募ります。こうして武士の性の相手として、小姓や寵童のような役職ができたのです。

戦国時代から江戸時代にかけて彼らのセックスのやり方について記した書物もありました。身分ある武士の相手とは言え、これでは風俗とかわりありません。相手がより身分が高くとも、小姓や寵童とて身分がある男性だったはず。

今でいう風俗嬢のようなことをするなんて、さぞ屈辱的であっただろうと推測できますが、意外とそうでもなかったようです。明治時代に元土佐藩の馬場辰猪は、「少年が年頃になると、両親が保護者となってくれる武士を探すのが普通。頼んだ武士がしっかりした人物であれば、子供の将来を安心できた」と幕末を語っています。

君主と小姓は性欲を超えた愛ある関係だった

上のような話を聞けば身分ある武士が後見人となるかわりに、若い武士がその身を差し出した忌むべき習慣のようにも見えますが、決してそういうわけでもありません。

大人になって主従関係を結んだ家同士では、政治的思惑や金銭的援助といった何らかのメリットを目的にしています。メリットがなくなればたちまち反旗を翻すのは、下剋上を見れば明らかでしょう。しかし、小姓や寵童のような幼少期から関わりがあれば、物理的なもの以外に精神的な結びつきがあります。

君主とは、少年たちからの愛に答えて、少年の家への支援や、少年本人たちの教育すら惜しみません。つまり、君主と小姓はただの性的関係に止まらない信頼や愛情があったのです。

また、戦争は状況に応じた臨機応変な対応が求められます。しかし迅速な通信手段がない戦国時代は、指示かなくても適切に動ける優秀な家来がどれくらいいるかが勝敗の分かれ目でもありました。

少年の頃から寝食をともにし、長い時間を共有する小姓や寵童はまさにぴったり。少年の頃から1人前の武士として戦場に立つまでの間に、自分の戦法や兵法を伝え教育する時間はたっぷりあります。

このため、権力者たちは小姓に積極的に教育を施し、優秀な武士にしようとしました。体だけの関係ではなく、男として戦国を生き抜く術を与えました。君主は小姓や寵童たちを慰み者ではなく、対等な男性として慈しみと深い愛情を持っていたのです。